佐渡へ〜,佐渡へ〜と〜
〜佐渡に2泊3日で行ってきました〜
ここは観光地図の7です
その10
(佐渡金山)
第2日;2004年8月7日(土)
佐渡奉行所から,山を2km程登り
(といっても車で)
佐渡観光の定番! 金山を見学
佐渡金山 佐渡金山は慶長6年(1601年)に発見され,徳川家康の手で開発された。平成元年(1989年)3月末採掘が中止されるまで約400年間掘り続けられ,鉱山としての寿命が長かったことでは世界でも珍しい鉱山である。 The Sado Gold Mine The Sado Gold Mine was discovered in 1601 and
developed by Tokugawa Ieyasu and his government. Its
mining operation cotinued for about four hundred years
until 1989, when its operation was ceased. This mine
supported the finance of the Tokugawa Shogunate for 267
years. It's production of gold and silver in the 17th
century was ranked with that of the Potosi Mine in
Bolivia or the Akatecas Mine in Mexico, making it one of
the leading mines of that time. |
いやぁ〜,涼しい〜・・・
坑道内の気温は,11℃ですって!
天然のクーラーです
客が多い訳が解る!
(・・・て訳はないだろうけど・・・)
人形が・・・ちゃちだと言われたのですが
いやいや,良く出来ています
(最近,作り直したのだそうですね)
佐渡鉱山の沿革 金山のあゆみは日本の歴史とともに 佐渡では古くから砂金が採られていたが,佐渡金山の名が全国に知れ渡り,金山の盛衰が島の人口を左右するほどになったのは相川銀山が開発されてからである。相川銀山は慶長六年(1601)鶴子銀山の山師が発見し,六拾枚,道遊,などの鉱脈を開いたのに始まったと言われている。 同年,江戸幕府の天領となった佐渡に,やがて大久保長安が奉行となると,鉱山の大開発が始まった。こうして,金銀の産出量は激増した。最盛期に達したのは鎮目惟明(しずめこれあき)の奉行時代と言われ,主要金銀脈にあたる間歩が盛んに開発された。 元和五年から六年(1619〜20)にかけての出鉱高は十日間で一万荷に達したと言われる。 しかし慶長一二年(1607)坑内に湧水があったのをはじめ,しばしば浸水することが多くなり採鉱も次第に困難となる。 はじめ,排水にはつるべを使っていたが,スッポン樋,オランダから揚水機などを輸入,これを試用するなど様々な排水方法の改良をはかった。元禄四年(1691)には坑内湧水の水貫きのため,疎水坑道の開穿も行った。しかし江戸時代の技術では根本的な解決をみずに,廃鉱する部分がおおく,産出量は激減していった。 明治維新以後,金山は政府の方針に従い,官有化され,英国人ガバールらの指導によって新式の採鉱法をもちい,順次設備も建設されて,産額を増していった。外国の技術も一年ほどの間に学び終え,日本人技師のみの経営が可能となった。金山は一時,宮内省御料局の所轄になったが,明治二九年(1896)に生野鉱山と共に三菱に払い下げられた。 昭和二七年(1952)鉱山を縮小し,細々と操業をしてきたが,平成元年(1989)に鉱量枯渇のため,採掘を中止した。 |
ということで,鉱山の仕事は,湧き水とのたたかいであったようで
樋引人夫(といびきにんぷ)と水替人足(みずかえにんそく) 坑道が深くなると出水量が増え,排水が必要となる。水上輪などを操作するのが樋引人夫,つるべや手桶で湧水をかい出す重労働をするのが水替人足。水替え人足には,江戸時代後期に僅かの人数(約90年間で1,874人)ではあったが,江戸,大坂などから無宿人などが送られた。 |
杉右エ門断層
佐渡金山の西端に位置し,南北に1,500m延びる大きな断層で,幾つかの鉱脈を断ち切っている。 |
当時は,子どもだって
当然働いていた!
(見習えよ,若者たち)
熱心に見学する山の神
振り返って下さ〜い
撮影者が不慣れでピンボケの
小父さん
休憩中の皆さん
こういう人達は,職人なのでしょうね
(無宿人でなく)
金穿大工(かなほりだいく)の作業 引立穿(ひったてぼり)・・・・水平方向に掘る |
鏨や砥石が見えます
立合
立合(たてあい)
鉱脈のこと。佐渡金山では石英層の中に金銀が含まれているので,石英層を立合といった。
狸穴
狸穴(たぬきあな)
細い鉱脈をたどりながら掘り進んだ坑道で,やっとくぐれる位の小さなものが多い。
こうした,鉱脈を辿って,穴を掘っていったんですね〜
坑道から出ると・・・・
二人のメガネがさーーっと曇りました
ずっと,坑道内に留まりたかったなぁ
橋を渡って・・・資料館に入ります
さて,最初の展示物は
金鉱石
佐渡鉱山の沿革 金山のあゆみは日本の歴史とともに 佐渡では古くから砂金が採られていたが,佐渡金山の名が全国に知れ渡り,金山の盛衰が島の人口を左右するほどになったのは相川銀山が開発されてからである。相川銀山は慶長六年(1601)鶴子銀山の山師が発見し,六拾枚,道遊,などの鉱脈を開いたのに始まったと言われている。 |
蟻の巣状の坑道
金が出来るまでの工程が紹介されています
■鉱石を掘る 巨大な岩体の中に広がる白い石英の鉱脈を掘りとっていきます。岩を掘るのも、硬い鉱 石を割ってとるのも、原則としてつちとたがねとくさびだけを使いすべて人の手による 仕事でした。 ■掘るためには ■鉱石から撰り分ける ■運搬 ■金鉱石の山分け ■精錬・金銀をとり出す |
佐渡金山の鉱脈 東西に約3,000m、南北に約600m、深さ約800mの範囲に分布しており、宗太夫坑はその西端に位置しています。 宗太夫坑は、江戸初期の富鉱のひとつ、「青盤脈」を掘ったもの。両側にはたくさんの狸穴が走り、金銀の鉱脈が手に取るようにわかります。 坑道の総延長は約400km |
金の生産量 | 388年間に採掘した金の量は、78トンです。 |
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徳川時代 |
41 |
明治時代 |
8 |
大正時代 |
7 |
昭和時代 |
22 |
外に出ても,坑道からは涼しい風が吹いてきます
いやあぁ・・・
涼しくて
生き返った気がします
では,「あそこも綺麗よ〜」と言われた長手岬へ,その様子は
こちら
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1-1:新幹線で新潟へ 1-2:フェリーで佐渡へ 1-3:ホテルで休憩
2-1:計画? 2-2:二ツ亀 2-3:賽の河原 2-4:波蝕海岸 2-5:尖閣湾 2-6:奉行所
2-7:金山 2-8:長手岬 2-9:酒蔵見学 2-10:Gold Park? 2-11:公営畑野温泉 2-12:宴会
3-1:トキの森公園 3-2:清水寺 3-3:根本寺 3-4:フェリーに乗って新潟へ 3-5:新幹線で東京へ
4-1:その他(家) 4-2:その他(交通) 4-3:その他(雑感)
最終更新日 : 2004.08.12
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