佐渡へ〜,佐渡へ〜と〜
〜佐渡に2泊3日で行ってきました〜

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ここは観光地図です

その9
(復元:佐渡奉行所)

相棒殿がチケットを購入しています

このページも写真が多いいすよぉ〜

第2日;2004年8月7日(土)
昼食を尖閣湾の若布蕎麦で済ませて

相川の佐渡奉行所跡を見学です


入り口脇にはパンフレットが置かれていますが,

係の人が正面の入り口に案内してくれて由来などを説明してくれます

これは出土した柱

では,説明など

国史跡 佐渡奉行所跡
御役所(おやくしょ)

ようこそ史跡佐渡奉行所跡へ!
ここ相川町には江戸時代
佐渡金山を管理するために
奉行所がおかれていました
佐渡奉行所には
行政を行う御役所だけでなく
金や銀などを精製する工場(勝場せりば)や
奉行などが住む陣屋がありました。

江戸時代,相川町は金銀山があったため,江戸幕府が直接管理する天領でした。佐渡奉行所はその江戸時代の初め,慶長8年(1603)に建てられました。
御役所は佐渡奉行所の中央にあり,とても重要な建物です。ここは現在の役所と裁判所を兼ねた役割をしていました。また,本来は御役所の後ろには奉行住む陣屋が続いており,この2倍近い広さを持つ建物でした。
佐渡奉行所は,江戸時代初めに建てられてから,焼失と再建を5回繰り返し,その都度立て直されてきました。そして,昭和4年,国史跡に指定されました。昭和17年の火事によってすべてが失われました。
平成6年,再度国史跡に指定されたのを受け,佐渡奉行所跡を来訪者により分かりやすく理解して貰うために,保存整備事業が始められ,平成12年度佐渡奉行所(御役所部分)が復原されました。

奉行所と聞いて,私は,てっきり
金山で生産された金がここに運ばれてきて
保管するところ
金山を管理するところ
と考えていたのですが,,,,

違いました!

ここが金の精錬場だったのですね

裏には,予算がつかなくて,建物がない部分
(陣屋:住居部分)

少なくとも
御金蔵ぐらいは復原して欲しいですね

見学者は少なく
立ち入り禁止だけど,草履があるから,降りてみて良いよ
の言葉に
お白州に降りてみました

御白州:警察と裁判所の役割をしていました

町と奉行所の移りかわり

 慶長6年(1601),大金銀鉱脈が発見されると,わずか2〜3年で数万人働く町が,山中に出現した。慶長9年(1604),代官・大久保長安は,海岸段丘の先端に大きな敷地の陣屋(後の奉行所)を建て,佐渡一国天領の拠点とした。

 以後400年にわたり,相川は金銀山の町として大きく発展していく。

維新後は,県庁(佐渡県)として使われていたそうです

ここで,係の方に声を掛けて頂いて
記念撮影

小父さんの方は,メガネが光ってしまったし
髪はあちこち跳ねているし・・・

パンフレットから,略年表

年号

西暦

事項

慶長6年

1601

相川金銀山が発見される

慶長8年

1603

大久保長安が佐渡奉行所を相川に開く

元和7年   

1619

佐渡一国通用の印銀を造る

元和7年

1621

佐渡において小判製造が始められる

正保4年

1647

火災により奉行所焼失する(翌年再建)

元禄2年

1691

割間歩より南沢へ水貫坑道の掘削が始められる

正徳2年

1712

火災により奉行所焼失する(翌年再建)

寛延元年

1748

奉行が二人役になり交替在勤となる

寛延3年

1750

寛延の百姓一揆が起こる

宝暦11

1761

一国通用の印銀を廃止する

寛政11

1799

火災により奉行所焼失する(同年再建)

文政2年

1819

小判製造を止め焼金のまま上納する

天保5年

1834

火災により奉行所焼失する(翌年再建)

天保9年

1838

天保の百姓一揆起こる

天保14

1843

奉行が一人役となる

弘化3年

1846

奉行が二人役となる

安政5年

1858

火災により奉行所焼失する(翌年再建)

文久2年

1862

奉行が一人役となる

慶応4年

1868

佐渡奉行所廃止。佐渡県となる

昭和4年

1929

佐渡奉行所址が史跡指定される

昭和17

1942

旧奉行所の建物がすべて焼失する(翌年史跡指定解除)

平成6年

1994

佐渡金山遺跡として奉行所を含む7ヵ所が史跡指定される

埋鉛

埋鉛

 鉛は,金銀の精錬に必要であった。
 大吹床で,金銀分を多く含んだ砂に鉛を加えて加熱し,金銀と鉛の合金をつくる。表面を冷やすと,不純物はからみとなって分離する。
 次に灰吹床で,合金を加熱し,鉛だけを酸化させて,路壁のハイに吸収させて鉱滓として分離し,筋金・山吹銀をとる。
 鉛はまた,印銀や銭の鋳造にも用いられた。
 印銀は,佐渡一国だけに通用した銀貨で,元和5年(1619)に造られた。銀6・銅鉛4の合金に,人名・地名・数字などを打刻したもので,重さが貨幣として価値を表す秤量貨幣であった。
 印銀50〜60匁が金1両であった。印銀の使用は宝暦11年(1761)に廃止された。

鉛は蒸発させてしまうため

使い捨てだったんですって
へぇ〜
でしょ!



ここは,御不浄

再現したもので,見学者は使用できません
(使ってみたかったなあ〜)

一旦外に出て,勝場へ向かいます

え〜・・・・工場部分ですね

 勝場は採掘した鉱石を細かく砕いて,金や銀を精錬する工場です。ここでは,これらの作業を一箇所に集めたので「寄勝場」と呼ばれていました。
 佐渡では,金や銀を管理するために,宝暦9年(1759年)から,奉行所の敷地内に勝場が設けられました。

 発掘調査で多くの舩(木製の水槽)や桶,そして水場に使用した木桶も検出されました。

 勝場は,建物が建ち並ぶ大きな工場でした。

 


取り敢えず,等級分けされた石は細かく砕かれるのですが

金銀と判るものは選別するとして・・・

少しでも,金銀を取り出すために,水も何度も何度も選別され


最後は,金銀を含んでいるかも知れない水を上から流して,サラシの目で受け止めます

そのサラシは当然繰り返し使います

いやいや,大変な作業だぁ


鉛と金銀の合金に塩を加え,木炭で熱し,金銀だけを取り出す炉の跡

では,定番の金山へ,その様子は

こちら

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最終更新日 : 2004.08.11

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