KOREA-5
〜韓国旅行のその5〜

KOREA-1
韓国に着いて

KOREA-2
水原

KOREA-3
民俗村〜明洞

KOREA-4
ソウル景福宮

KOREA-5
宗廟・昌慶宮

KOREA-6
昌徳宮

KOREA-7
旅のまとめ

2004.3.20
宗廟

昌徳宮のガイドツアーは
2時半からなので

宗廟を見学

年配の方はチケットを購入せずに入構しています

宗廟

宗廟は,朝鮮時代の歴代王と王妃,及び追尊された王と王妃の位牌が祭られている霊廟である。186,788uの敷地内には,宗廟の正殿をはじめとし,王室の位牌のうち正殿に入れなかった位牌を祭る別廟である永寧殿や,展祀庁,御粛室,香大庁,功臣堂,七祀堂などがある。
宗廟は,朝鮮王朝が漢陽(現在のソウル)に首都を移した年である朝鮮第1代王,太祖3年(1394)年12月に着工し,翌年9月に完工した。そして以前の首都,開城に安置されていた太祖からさかのぼって4代目までの先祖である穆祖・翼祖・度祖・桓祖の位牌を移した。
正殿は,当初太室7室,翼室(左右についている部屋)2室であったが,朝鮮第13代王,明宗のときに,4室増築され,太室11室になった。しかし,第14代王,宣祖25年(1592),文禄・慶長の役で焼失し,朝鮮第15代王,光海君即位年(1608)に再建された。その後,朝鮮第21代王,英祖,朝鮮第24代王,憲宗ときに4室ずつ増築され,現在太室19室になっている。

望廟楼(マンミョル)

望廟楼は,王が休息をとっていた所である。望廟楼という名称は,祭祀を行う時に王が宗廟の正殿を見つめ先王と宗廟社稷を考えるという意味でつけられたもので,この建物の一間は床が高く造られている。

望廟楼の横にある池は,朝鮮第4代王,世宗25年(1443)に造成されたもので,四角い池の中央に丸石があるが,これは天円地方(天は丸く,地は四角い)思想によるもので,中央に松ではなくイブキを植えてあるのが宗廟の特徴である。
御粛室(エスクシル)

御粛室は,王が祭礼を行う前に斎戒沐浴をし,祭礼の準備をした所である。
宗廟の正殿の東側に位置する御粛室は,斉宮,又は御斎室とも呼ばれる。塀で囲まれたこの区域の北側は御斎室,東側は世子斎室,西側は御沐浴庁である。祭礼のとき,王と王子(王位継承者)は御斎室正門から入り斎戒沐浴をし,西来門から出て正殿と永寧殿に入り,祭礼を行った。

この建物は,朝鮮第1代王,太祖4年(1395)に正殿と共に建てられたが,文禄・慶長の役で焼失し,朝鮮第15代王,光海君即位年(1608)に再建されたものである。正殿の規模が大きくなるたびに,この建物は東へと移築された。
正殿

国宝第227号

正殿は,朝鮮時代初期には朝鮮第1代王,太祖からさかのぼること4代目までの先祖の位牌を祭ってあったが,その後は,当時在位中の王の4代上までの先祖と,歴代王のうち特に功績のあった王と王妃の位牌を祭り,祭祀を行っていた所である。正殿は,もともと宗廟と呼ばれていたが,永寧殿が建てられてから太廟とも呼ばれている。

現在正殿には,西側の第1室から朝鮮第1代王,太祖と王妃,朝鮮第3代王,太宗と王妃,朝鮮第4代王,世宗と王妃,朝鮮第7代王,世祖と王妃,朝鮮第14代王,宣祖と王妃,朝鮮第16代王,仁祖と王妃,朝鮮第17代王,孝宗と王妃,朝鮮第18代王,顕宗と王妃,朝鮮第19代王,粛宗と王妃,朝鮮第21代王,英祖と王妃,朝鮮第22代王,正祖と王妃,朝鮮第23代王,純祖と王妃,文祖と王妃,朝鮮第24代王,憲宗と王妃,朝鮮第25代王,哲宗と王妃,朝鮮第26代王,高宗皇帝と皇后,朝鮮第27代王,純宗皇帝と皇后の位牌まで,合わせて19室49位が祭られている。
建築様式は単純ではあるが,韓国の一つの建築物としては最も長い建物で,正面に細長く整えた石を積んで造った月台と呼ばれる石段を設け,霊廟建築としての品位と厳粛さを表している。

韓国一幅の広い建物・・・納得です

どんなに下がっても・・・全体が入らない!

永寧殿
宝物第821号

永寧殿は,朝鮮第4代王,世宗3年(1421)に朝鮮第2代王,定宗の位牌を宗廟に祭るときに,位牌を祭る部屋である太室が不足したため,別廟として建てられたもので,朝鮮第1代王,太祖からさかのぼること4代目までの先祖もここに移された。その後,正殿において祭られなかった王と王妃の位牌を移して祭祀を行っていた所である。
正殿や永寧殿の構造の一部には,古式に従って,入り口に板の扉をつけ簾を掛け,内部の部屋と部屋の間には壁を造らずに簾を掛けて区切り,位牌を祭る甕室の前には幕をかけるという方式が使われた。これは,地上の建築物であるが位牌を祭る特別な建物であるため,昔からの伝統的な方法に従っているのである。


ここも同じような建物なので,門だけ

昌慶宮(チャンギョグン)

昌慶宮(チャンギョングン)

もともと昌慶宮の場所には上王(王の座を譲り渡した先代の王)である太宗(テジョン・李朝第3代王、1367〜1422、在位1400〜1418)を住まわせるため、世宗大王(セジョンテワン・李朝第4代王、1397〜1450、在位1418〜1450)が1428年に建てた寿康宮(スガングン)。当初は先王・太宗が居住していたところでした。その後、太宗が崩御し、荒れ果てていたものを成宗(ソンジョン・李朝第9代王、1457〜1494、在位1469〜1494)が、王の祖母である貞熹王后(チョンヒワンフ:李朝第7代王・世祖[セジョ]のお妃)、生母昭恵王后(ソヘワンフ)、そして養母安順王后(アンスンワンフ:李朝第8代王・睿宗[イェジョン]の継妃)の3人の大妃(先王の后妃)を住まわせるために3棟の王宮を改築、拡張することにより、王宮としての威厳を備えていきました。
昌慶宮は、昌徳宮(チャンドックン)とともに景福宮(キョンボックン)の東側にある王宮という意味で東闕と呼ばれました。また、塀を境にして昌慶宮と昌徳宮は隣接しており、相互補完の関係にありました。昌慶宮の特色は、正門にあたる弘化門(ホンファムン)、中門にあたる明政門(ミョンジョンムン)、正殿にあたる明政殿が東向きなのに対して、内殿はほとんどが南向きに建てられていること。それに女性が多く住んでいるため、相対的に昌徳宮よりも内殿の建物の数が多かったということ。これは他の王宮ではあまり見られない特徴です。殿閣のほとんどは徐居正(ソ・コジョン)が名付け、正殿にあたる明政殿の棟上文は金宗直(キム・ジョンジク)がつけたとのこと。当時、昌慶宮には現在とは比べものにならないほどに大きく(2000間を越える殿閣など)、広い王宮であったと言われています。しかし創建当時の殿閣はすべて豊臣秀吉による文禄・慶長の役(韓国名壬辰倭乱[イムジンウェラン])の時に焼失し、1616(光海君8)年に再建されてからも火災が続き、そのたびに内殿が焼けたため、現在残っているのはほとんど壬申の乱の後に再建された明政殿をはじめとするその回廊と、その前門にあたる明政門、昌慶宮の正門にあたる弘化門などの外殿、及び1834(純祖34)年に再建された崇文堂(スンムンダン)・涵仁亭(ハミンジョン)・歓慶殿(ファンギョンジョン)・景春殿(キョンチュンジョン)・通明殿(トンミョンジョン)・養和堂(ヤンファジョン)・集福軒(チッポッコン)・迎春軒(ヨンチュノン)などの内殿になります。

宗廟を登り切ると
道路を横断する歩道橋が架けられていて
それを渡ると辿り着けます

入場料は,宗廟と一緒で確か・・・900ウォン

正殿に向かって右側が文官

   左側が武官

位階によって並ぶ場所が決まっており,
石碑がそれを示しています

地図の左下から入り

若干北上し

見学をして

東側から出ると・・・・ぐるっと廻らないと

昌徳宮(チャンドックン)には戻れません

   当然,陸橋の下を通ることに・・・・

王座

 

何だろう???

屋根の白い部分はコンクリートではなく
石灰を塗ったものです

昌徳宮(チャンドックン)の前まで戻って,時計を見ると

1時半

日本語ガイドツアーは2時半ですので
遅めの昼ご飯を食べましょう

手近な店に入って
注文したのは,ビビンバ!

石焼きではありません

そして,ブタの三枚肉と焼き肉

焼き肉は2人前からでないと注文できません
(これは,韓国で普遍的ルール)

具の上にご飯(ピンク色でした)を載せ

味噌を載せて
グジャグジャかき混ぜてから食べます

これが意外と美味しかった

さて:ガイド付きでないと入れない
昌徳宮
(チャンドックン)

見学に行きましょう

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最終更新日 : 2004.04.04

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