千葉県佐倉市petit観光
その4

旧堀田邸

佐倉藩・最後の城主:堀田正倫(まさとも)が
明治半ば
東京から帰郷を許され
別邸として建設された邸宅

210円払って,入館すると
ボランティアの方が詳しく説明しながら,案内してくださいます

正倫は
この地に
農事試験場を建設し
藩校跡に
佐倉高校(旧佐倉中学校:長嶋の母校として有名)を建設し
順天堂(病院・大学)を作りました。

その子孫は,2003年1月に死去した
前佐倉市長であり
この方が
京都・奈良・鎌倉に勝利して
国立歴史民俗博物館を佐倉市に誘致したそうです

(因みに歴博は明治100年を記念して建設が計画されたもので,私は小学校6年で,親にねだって,朝日新聞社刊の『明治100年』を買って貰ったのをよく憶えています)

説明によると明治44年に当時の皇太子(後の大正天皇)の視察を迎えるため
湯殿を増築したそうで

湯船は最初から存在しません

通路は大変天井が低く
設計の段階から小さな方に合わせた設計をしたのだと想像されます

庭より眺めた

現在は,同じ敷地内に
総合老人福祉施設が建てられています

正式なホームページはこちらです
http://www.city.sakura.chiba.jp/shisetu_guide/hottatei/hottatei.htm

佐倉市のHPには大したことが紹介されていませんので,パンフレットから引用しましょう!

旧堀田正倫別邸庭園(千葉県指定文化財名勝)

 旧堀田邸は堀田正倫の邸宅であり,明治23年(1890)に竣工しました。明治44年には東宮殿下(後の大正天皇)の来訪に伴って,主屋に湯殿が増築されています。現在では主屋・土蔵・門番小屋といった建物と庭園が残され,さくら庭園として市民の憩いの場となっています。
 旧堀田邸は,主屋の間取りに近世武家の住宅を引き継ぎつつも,近代の新しい生活に合わせた部分もみることがdけい,明治期における上級和風住宅の特色をよく示しています。庭園は,眼下の高崎川や下総台地を借景にし,景石やマツ・サルスベリなどが配されています。旧堀田邸のような明治における和風建築と庭園が,ともに残された旧大名家邸宅の違例は,全国的にみても珍しいものです。

 当初旧堀田邸の主屋は,玄関棟・座敷棟・居間棟・書斎棟・台所棟・湯殿から成り立っていましたが,台所棟は,現在大部分が解体されています。
 旧堀田邸の主屋は,身分や格式を意識した造りとなっています。家の出入り口は現在3ヶ所(往時は5ヶ所)ありますが,それぞれ出入りする時期や人の違いによって,使い分けがなされました。トイレもほぼ各部屋の床の間の後ろごとにあり,部屋ごとに使い分けられていたといえるでしょう。また,壁土や釘隠は,場所ごとに使い分けがなされています。これも,それぞれの空間の性格によって変化が付けられたと思われます。
 旧堀田邸は,家族の生活空間である居間棟や書斎棟の部屋の造りに工夫が凝らされいます。引き戸の絵には,明治を代表する女流画家である跡見花蹊等の絵が用いられ,七宝焼きの引き手などを使用し,それぞれ異なった意匠が使われています。
 書斎棟の障子格子は一つ一つ面取りがしてあり,天井にはインド更紗が張ってあります。
 きらびやかなところはありませんが,旧士族らしい質素な美しさをみることができるでしょう。
 一方,接客にも用いられた玄関棟や座敷棟は重厚な造りになっています。また,玄関棟には,家令・家従・家丁といった堀田家を支えた人々の執務室がありました。
 往時の旧堀田邸は,堀田家農事試験場の敷地などを含めると,約3万坪の広さがありました。その様子は模型に復原してあります。現在の旧堀田邸・さくら庭園の敷地は,その3分の1ほどの広さです。

堀田正倫(マサトモ)(1851〜1911)

 堀田正倫は,最後の佐倉藩主でした。明治時代になると,正倫は華族として東京に住んでいましたが,佐倉で国の基となる農業と教育の発展に尽くそうとしました。佐倉に邸宅を構え,その周辺に堀田家農事試験場を明治30年に作りました。この試験場は,明治時代の千葉県を代表する農業研究期間です。また,学問のため奨学会を作り,当時の佐倉中(現佐倉高校)へ多額の寄付等もしました。

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最終更新日 : 2003.09.07

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