北関東の春も間近
〜群馬・栃木に1泊2日〜

その2:国瑞寺・銅像・岡登親水公園

05/03/19

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北上していたら
藪塚本町を抜けて
笠懸町に入ったので
図書館で色々聞いて

墓所の国瑞寺に到着

国瑞寺

山門は新築したようです

こちらがお墓

教育委員会の建てた説明

さて,読みましょう

県指定史跡

岡上次郎兵衛景能の墓

指定 昭和27年11月11日
所在地 笠懸町大字阿左美1616

景能公は埼玉県児玉郡高柳村に生まれ,父景親の後を受け寛文2年(1662年)将軍家綱の時,幕命により笠懸野に陣屋を築き代官として移住した。生来剛直淡泊で国のため,人のためになることならば世論に関せずただ実行に命をかけても遂行する立派な開拓人であった。
当初笠懸野は原野で,水利が悪く耕作皆無の状態で荒れはてた土地であった。景能公は,この土地に水をかんがいするため渡良瀬川より水を引き,寛文12年(1672年)十年以上の年月をついやして岡登用水堀を完成させた。
用水堀の長さは24キロメートルに達し,笠懸町・藪塚本町・新田町・佐波郡赤堀町・東村の七ヶ町村にわたり,荒野に農耕が可能となり,現在の笠懸町に発展した。しかしこの大事業も,心なき人々の悪口同僚官吏による嫉妬,下流住民の余水のわき出し等苦言により,幕府に召喚され,貞享4年(1687年)12月3日切腹を申しつけられ自害した。当時五十余才といわれている。その後生前の功労により大正4年11月10日追賞を受け従五位を贈られた。

笠懸町における景能公の遺物 及 業績跡
 国瑞寺・・・・・・・当所
 陣屋跡(約4町歩)・鹿の川
 三ツ又分水・・・・・竹沢
 蔵屋敷堀・・・・・・阿左美仲町
 景能公自害の剣・・・国瑞寺

  昭和60年8月
   群馬県教育委員会
   笠懸町教育委員会

人物が見えてきたような気がする

ここに眠っているんですね

・・・・・昼食・休憩・・・・
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銅像

ご先祖様かも知れないから

一緒のポーズをとってみました

 この銅像の除幕式に,茨城在住の伯母(母の姉)が招待されたそうで,法事で会って,あれは間違いなくご先祖様と云われました。

岡登親水公園

へえ・・・と,感心してみていたのですが

ちょっと歩くと

説明版

三俣分水口

ああ・・・なるほど

ここから,二手に分けて,用水を東西に分けたんですね

こうして,木組みで作ってねえ

なに?なに?

溜め池を作ったけど,漏水して,耕地や人家に湧出したと!

ああ・・・詰めが甘い

弘法大師みたいには行かない

そうそう・・・子孫かも知れない人も詰めが甘い
ではなく
今回訪問した子孫も詰めが甘い

現在の分水口は機械仕掛けの跳ね上げ式

遊歩道として整備されています

岡上景能年譜

1626  景能旗本大井家に出生(推定)
1627  このころ大井家断絶,景能は母と共に離別となる。
1630  景能の母,岡上甚右衛門景親に再縁,景能養子となる。
1631  岡上甚右衛門景親,二代代官となる。
1649  銅山街道の設定,整備が行われる。
1654  景能代官職を代行し始める。
1661  景親没。景能家禄150石と代官職を継ぐ。
1664  景能足利郡を併管,柳原用水・7ヶ村用水を施工。
1667  笠懸野に国瑞寺を創建(推定)
1668  景能足尾銅山奉行となる。
1669  用水開拓工事を発起申請,許可を得て10月頃着工。
1670  鹿の川に陣屋を置く。銅山街道の路線変更。
      大原に銅問屋を置く。
      岩ノ下溜井(鹿の川沼)がつくられる。
1671  笠懸野用水に下流郷村より苦情起こる。
1672  笠懸野開拓工事終わり,入植者募集。
      2月29日,幕府,笠懸野用水問題に検察吏を派遣する。
      4月5日,幕府,笠懸野用水に条件付き取水を許可,下流郷村
      に通達。
1673  国瑞寺に独湛禅師を招き開山する。
1687  7月6日,景能遠島を仰付られる。
      12月3日,景能切腹する。
    (この間,75年)
1752  岡登霊社創建される。
    (この間,104年)
1856  岡登用水の復興工事始まる。(天王宿・下新田地区)
1872  岡登用水の拡張工事始まる。(旧水路の復旧と新水路の設置)
    (この間,79年)
1951  11月10日景能従五位を贈られる。

岡登用水と岡上景能

 岡上景能公は,江戸時代の初めに笠懸地域を治めていた幕府の代官です。その頃の笠懸は,川がなく荒れ地が広がっていましたが,景能公の発案で渡良瀬川から用水を引いてくることになりました。その用水が現在の岡登用水です。
 岡登用水の工事は,実際の水路工事よりも,渡良瀬川から水を取り入れる許可を得ることの方が難しかったといわれています。それは,岡登用水の取水口より下流の待・矢場の両堰が,すでに渡良瀬川の水利権を持っていたからです。したがって,尤も水の需要の多い夏場には,ほとんど取水することができず,需要のない冬の時期に取水して夏場まで貯水しておかなければならない,ということになりました。そこで,新田開発を予定しているも最も上流に溜め池を設置することになり,岩ノ下溜井(鹿の川沼)がつくられたのです。
 また,景能公は1668年から足尾銅山奉行の職を兼ねることになります。そこで,笠懸野の新田開発と同時に新しく銅山街道を整備しました。この新しい銅山街道は,足尾銅山から渡良瀬川沿いに大間々宿まで下り,そこから南へ真っ直ぐに鹿の川沼の西を通って,利根川の平塚河岸へと続くもので,新たに大原宿が設置されました。岡登用水は,大原宿の宿用水としても利用されました。
 景能公による新田開発によって,新たに久々宇村と桃源村ができました。ところが,幕府の通水試験を受けて完成した岡登用水も,用水下流地域の農民とのトラブルが原因で廃渠となってしまいました。さらに,景能公は公金使用の決算の不明瞭や,用水溜め池の漏水問題が原因で失脚し,江戸に召喚されて死罪を申し渡され切腹して果てました。しかし,景能公失脚の真の理由は,江戸幕府内での政争に巻き込まれたという見方か有力です。そして,地元民の努力によって再び用水が復興されるのは,約180年も後の1872年のことになります。

笠懸町岡上景能公顕彰会

という訳でした
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最終更新日 : 2005.04.02

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