北関東の春も間近
〜群馬・栃木に1泊2日〜
その1:岡登霊神社
05/03/19
確か・・・伯母さんの誰かが云っていた
ウチのオカノボリという名前が付いた神社があるのよ〜
と
何処かに出掛けようと云うことに突然なったので
インターネットで検索して
群馬県に岡登霊神社を発見
ルートを検索して
(カーナビはないのですが・・)
到着
ここは,群馬県東部
藪塚本町
地図で見ると
足尾から下ってきた渡良瀬川が扇状地を形成している場所の中心(扇央)に位置しています
碑があります
雨に洗われてよく読めませんが
岡上景能・・・・
とは読めます
脇には「大王神社?」
滑り台があって
相棒が立っている辺りはゲートボール場
少し新しい碑がもう一つ
横書きで・・・こちらには
岡登景能公
三百年祭記念碑
とあります
おお・・・立派なお社
手水場もあって
その脇には絵図と説明文
読みましょう
代官 岡登次郎兵衛景能公は,武州高柳村(埼玉県児玉町)に生まれた。承応三年(1654)幕府代官に任用され,父景親に従い吾妻郡東村岡崎新田開発に榛名湖を源とする沼尾川より引水し多くの水田を拓いた。 大間々扇状地帯にある笠懸野は古渡良瀬川の河床であったため,いわゆる不毛の地であった。景能公は寛文九年(1669)笠懸野に赴任し鹿之川に陣屋を設けて管内を綿密に調査測量の上農民のために開発の許可を得た。そして足尾町を起点とする銅山街道沿いに地区割を設け,久々宇 桃頭 本町 大久保 山之神 六千石 権右衛門 溜池 と不毛の土地2052町歩を開発し,原八ヶ村を新設した。更にこの地に水を引くべく大間々地内の渡良瀬川右岸(蕪町)より岩盤を割り抜いて取水口を設置し三股分水により用水を西南に二分するなど難工事を重ね,念願の笠懸野を潤す岡登用水を完成させたのである。開拓住民の安住は先づ敬神崇祖の精神をと 五社三寺を創建して民心の安定に心を尽くした。偉大な事跡を重ねられた公は貞享四年十二月三日(1687)冤罪を被り自刃された。齢五十余才と伝えられている。遺骸は笠懸町国瑞寺に葬られ,その功績を認められ,大正四年 従五位を贈られた。 地区農民は公の恩に報いるため,宝暦二年(1572)京都吉田神道家に神号下付の運動を行い「顕信霊神」の神号が下付され,ただちに本町村明神宮境内に社祠を建立「岡登霊社」とした。 時代は還り用水路再建の願いは,明治五年許可され翌年完成した。 その後昭和三十一年から岡登用水の 笠懸町 阿左美沼 東貯水池に於て開催されている競艇の事業収益は周辺市町の財政を潤している。 景能公没後三百年,今尚 公の恩恵に浴しているのである。 追 記 昭和四十九年十二月三日社殿改築と共に岡登景能公顕彰参百年祭を盛大に挙行,諸費用は総べて桐生競艇関係諸団体の醵金よって賄われたのである。境内は「岡登児童公園」として保存会に委託,会員により定期的に清掃作業が行われている。元旦の「お焚きあげ」は年々参拝者が増え,今では大行事となっている。 平成五年十二月三日 岡登景能公顕彰保存会 会長 椎名義朗 |
猪突猛進型の粗忽者と観たが,どうだろう?
扁額も立派
お参りさせて貰いましょう
裏にも社がありました
遊ぶ者もいない公園が淋しいけど
さて,お墓にもお参りしましょう
最終更新日 : 2005.03.21
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