2016/04/11
〜もう一工夫が必要かと〜

「家康,江戸を建てる」
〜門井慶喜〜

『家康,江戸を建てる』:門井慶喜(かどい よしのぶ):2016年2月20日:\1800:詳伝社:茂原市立図書館
 新聞で広告を読んで…すぐ買ってくれた
〜秀吉から関東八州を貰った家康は利根川の河口が湿地となるのを見て,川筋を東に曲げる作事を伊奈忠次に命じた。渡良瀬川に繋げて元の川は隅田川となったが,期待の長男・熊蔵は大坂攻めで気を悪くして早死にし,次男が忠治として完成させた。赤堀川へと繋げて鹿島灘へ河口を向けるのは忠克の時代だった。後藤長乗の従者として江戸に下った庄三郎は長乗が寒さを嫌って江戸を去った後,本領を発揮して京で造られている大判をそっくり真似て作り上げたが,家康が命じたのは小判の製造。後藤家が家康の元地元・駿府で造った小判を見た庄三郎は,品位の高い小判を造るに当たっては後藤の名が欲しいと家康に申し入れ,京へ上って養子にしてもらうべく参るが,無理難題を押し付けられ,貰った地位は猶子だった。それが逆転したのは,関ヶ原。戦勝を知った庄三郎は,京の三条大橋に高札を建て,後藤家の本筋は庄三郎の方に移り,小判は徐々に浸透していった。飲み水を引くのは菓子司の大久保藤五郎に命じられ,13年後に鷹狩りに出かけた森で七井の池を見つけ,在の内田六次郎という百姓が普請役に任じられた。野方堀で進められ,外濠と交わるところは水道橋が架けられた。町中は暗渠とされ徳川上級家臣の若党・春日与右衛門が補佐と云うより,実際を担っていた。目白の堰を切ると水圧のせいであちこちで大噴出したが,十余年の歳月が流れ,洗堰の工夫で改良した。大久保長安に召し出された伊豆の石切吾平は石の節理を読める見えすきの才能を持っていた。江戸に城を構える石垣の石材を切り出す仕事が与えられたが,大仕事がしたいと,西伊豆に向かい,山頂の巨石を切り出したが資金が底を突き,伊達藩に委ねて江戸に出た。江戸には石積みの喜三太がいて,浅野家から伊達家に鞍替えし,大手門周辺を担当しながら,北詰の山内家の普請場まで面倒を見ている。吾平が切り出した巨石は用いられず,隅石に用いたらと云う提案も斥けられた。喜三太が伊達家に掛け合って江戸に運び込まれたが,用途は大手門の鏡石,しかも巨石は二つに割られていた。家康が天守に固執するのを秀忠は冷静に見ていたが,天守建築は始められ,漆喰で塗ることが決まった。漆喰は青梅で見つかったが,何故白い天守なのか,秀忠は納得いかない。平和の色であると共に,江戸に幕府を開くための犠牲になった死者の色でもあったのだ〜
 まぁ,面白くてすらすら読めるんだけど,連作以外に方法はなかったのだろう。でも,もうすこし工夫することもできたと思うのが残念

4月の記録にジャンプ

読書記録の目次に戻る

最終更新日 : 2016.04.12

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送