2015/12/16
真言宗のお坊さんが書いた小説〜

「空海秘伝」
〜寺林峻〜

『空海秘伝』:寺林峻(てらばやし しゅん):1997年2月28日:\1648:東洋経済新報社:県立M高校図書館
 高野山開山1200年記念!ではなく,18年前で消費税は3%の時代
〜地(遍歴する心)兄二人が亡くなり多度郡司である父の跡を継ぐため15歳の真魚は叔父の阿刀大足が住む長岡京にやって来たが,遷都間もなくで大学寮もなく無為に過ごすが,政変で死んだ早良親王が怨霊となっていることを恐れる人々に道士・洪洵大根炊きを施し形代を配っているのを見た。佐伯氏本家の宿禰に紹介された奈良・大安寺の佐伯院を訪れ,氏子と知り合い,儒家でも道家でもなく,勤操と一緒に山を歩きたいという望みを抱いた。水(深い山へ)大学寮に入学が許可されても,休みの度に勤操を訪ねて帰ることも儘ならず,欠席が百日を超えて退学し,摘髪して沙弥戒を受け空海と名乗りを変えた。比蘇山寺に身を寄せた沙門空海は若い修行者である堅慧と知り合い数息観をならい,阿字観・虚空蔵求聞持法を伝授され,生涯をかける道を見出し,故郷に帰って父母に謝罪しようとするが,姉の智香を訪ね最初の弟子となる甥(智泉)と会う。水銀師定張や唐渡来の職人と出会い「三教指帰」を著し唐で密教が盛んなことを知る。火(長安の月)31で得度した空海は堅慧を伴って遣唐使の第四船に乗り込んだ。福州長渓県赤岸鎮に漂着し翌年遣唐使が引き上げる際に取り残されたのは,橘逸勢と空海と堅慧。西明寺で過ごすが恵果の弟子・義明に面会し,曼荼羅に関する解釈をした空海の話が伝わると,インド僧から習ったことを更に東方に広めようと考えて果たせなかった恵果は,鉢の水をもう一つの空の鉢に移すように灌頂を行って遍照金剛の名を授けた。唐の憲宗の要請で王羲之の文字が読めなくなった宮中の壁に五行の詩を書いたことから,両手両足と口に咥えた5本の筆で書いたとの噂が広まる。風(曼荼羅の旗)空海が都に辿り着く前に最澄の帰国によって密教は既に広まっており,高雄山寺を与えられても目立った動きはなかった。甥の智泉と大安寺で修行していた実慧が弟子となり,伝灯大阿闍梨として顕教との違いを説いた。当初,最澄は比叡山から弟子を派遣して書を借りていったが,嵯峨天皇から書を求められたのをきっかけに貴門との交流も出来,最澄も灌頂を望んで実現した。しかし,最澄側近の泰範が空海の下に留まり,秘典である「理趣釈経」の借用を断ったことから巨頭は決裂した。空(二つならず)高野山に道場を作る許可は朝廷から得ているが,天野郷の丹生都比売神に仕える大贄人である家信の協力を得られた。高野山の盆地は標高900m,南北300m東西1500mある。都では天皇を中心に空海を呼び戻そうとする動きが見られ,讃岐満濃池の修築別当の役を果たして嵯峨天皇から富寿神宝2万銭を受け,インド風の大塔建設を決意する。中納言藤原良房が届けた勅命は,東寺を長く空海に預けるというものだった。喜んで受け取った空海は,東寺を教国護国寺として教化の大道場に整える。天長元年の大干魃も雨乞いの祈祷を延長して救った。識(山に帰る)大衆学校の用地として藤原氏からの寄進を受けた空海は,綜芸種智院を作り,代わりに淳和天皇の真井御前に摂津国甲山の庵を用意し更に似姿の如意輪観世音を用意して阿闍梨位を与える灌頂を授け,密教易行道を始めた。高野山に上った空海は五穀を断ち万灯万華会を催し,すべての穀物を断って今の高野山奥の院で即身成仏を得,宮中で後七日御修法を営むように整え,弟子すべてを集めて遺言し,曼荼羅の人になった〜
 六大無碍にして常に瑜伽なり(即身成仏義):この世にある一切は人も含めて≪地,水,火,風,空,識≫の六つの要素で構成されているとして,それを六大という。密教では宇宙人格である大日如来の六大と個人の六大を合一させて自己を完成させようとする

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最終更新日 : 2015.12.17

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