2015/10/24
〜金曜深夜に目が覚めて読み終える〜

「劉邦 下」
〜宮城谷昌光〜

『劉邦 下』:宮城谷昌光(みやぎたに まさみつ):2015年7月20日:\1600:毎日新聞社:県立M高校図書館
 最後になって先生≠チぽくなちゃった。史記にはこう書いてあり,漢書にはこうかいてあるが,どういうことか判断つかないってね
〜楚は趙を救いに秦の1/10の兵で向かいこれを撃破し,碭に留まっていた劉邦にも征西の要請が届く。劉邦は,まっすぐ北へ向かわず,北の昌邑を攻めるが果たせず,酈食其の手引きで陳留に招かれる。開封から白馬へ進み,潁川郡と張良と再会を果たし,兵数は2万に,南陽で3万に,宛で7万5千に達する。南に迂回し,胡陵から武関に進み,𡸳関を落とし,藍田で二世皇帝の死に接し,咸陽で秦王となった子嬰の出迎えを受ける。臣下に諫められて覇上に退くが,函谷関を閉じて,項羽に疑いを持たれ,張良と項伯の交際に救われ,鴻門で謝罪が受け入れられた。漢中王となった劉邦は,逃げた韓信を連れ戻した蕭何に驚き,韓信を最上位の将に置き,関中から東征する策を受け入れる。櫟陽を整備した漢は,斉を攻めて釘付けになっている項羽の留守に彭城を陥落させるが,戻ってきた項羽に奪い返され,沛県で子二人を拾い,下邑を経由して碭県で態勢を整え,滎陽に籠もり,陳平に財宝を授けて項羽と范増を離反させ,一人で帰る范増は急病死したが,楚の包囲は堅い。囮を出して脱出した劉邦は,袁生の策で,櫟陽から武関を経由して南陽で楚軍の猛攻を受け,滎陽の兵に一息吐かせたが,気が付くと彭城にちょっかいを出された楚軍は泗水郡に南下した。これを斥けて帰着した項羽により滎陽は陥落し,次は成皋であるが夏侯嬰の勘が当たって脱出した劉邦は,修武で休息する韓信を訪問し,魏・趙・斉への遠征を命じる。広武山に逃げた漢軍と直ぐ隣の山頂に楚軍が対峙して膠着した。関中からの補給に滞りがない漢は,黥布を九江王に封じ,張耳を趙王,韓信を斉王として,三国で南方を攻めさせ,楚の補給路を断った。講和が成立し,引き上げる項羽を漢軍は追い続け,垓下で停まった楚軍は包囲された…〜
 行ったり来たりが素早い。距離は問題じゃなくて,気持ち次第って事かな。もう…断定して…こうだ!って書いちゃえば良いのにねぇ…小説なんだから…と最後は思った。史実に忠実でありたいんだろうけど

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最終更新日 : 2015.10.24

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