2014/11/07
〜何故,三句目を外した?〜

「天に星 地に花」
〜帚木蓬生〜

『天に星 地に花』:帚木蓬生(ははきぎ ほうせい):2014年8月10日:\1900:集英社:県立M高校図書館
 「人に慈愛」と続くのだが,途中で止めたのには意味があるのだろう
〜久留米御原郡井上村の大庄屋・高松孫市の次男に生まれた庄十郎は皆から可愛がられ,兄の甚八とは反りが合わない。農作業も荒仕子を手伝い,父が後学の為に呼び寄せた席には最後まで残った。享保13年,筑後川を渡った先の善導寺で気勢を上げる百姓達を見た。夏物成を十分の一から三分の一に引き上げるといった本庄奉行に撤回を求めるためだった。膨れあがった百姓衆が城下へ迫ると,若き家老・稲次が事態を収拾した。本庄は切腹を命じられ,十歳の嫡男も5年後の元服を待って切腹と決まった。藩主は隠居し,嫡男が跡を継いだが,江戸では算術大名として知られている。日照りの夏,大保村の雨乞いに子供では只ひとり庄十郎が参加した。吹上村から戻った庄十郎は熱を発し体中に水膨れができて,離れに隔離された。母の実家近くの高名な医師・小林鎮水の必死の看病で一命を取り留めたが,その前に世話をしてくれた荒仕子ののぶと母・菊は疱瘡で死亡した。鎮水自身も疱瘡を克服した者だったのだ。周囲は慰めてくれるものの,兄だけは怒りを直接ぶつけてくる。弟子を取らない鎮水に無理矢理弟子入りした庄十郎が出発する際,兄は二度と筑後川を越えてくるなと宣言する。享保十七年は雨が降り止まず,大飢饉が訪れ,城島町の診療所にも薬ではなく食料を求める患者が多くなる。多数の餓死者が出る中で,種籾まで徴収しようとする公儀に怒りが盛り上がるが,一揆になる元気もない。稲次によりその座に就いた藩主から家老職を解かれて横隈で蟄居させられていると聞く。さらに井上村の父からは容態が悪いと連絡を受け,鎮水と共に見舞うが,疱瘡の状態は悪い。必死の看病をするが,墨と筆を希望し手紙を書いて死亡するが,武士はつまらん・医者は人のためになるから良いと言った言葉が残った。妹の千代は,母の生家に嫁として迎えられ,武家から養子に迎えられた新大庄屋と仲は良く,子宝にも恵まれる。寛延二年,筑後川を渡った北野新町で廃業する医師に代わり,天神様の境内の診療所で開業した庄十郎は凌水と名を変え,村人の大歓迎を受ける。開業した凌水の診療所を訪問したのは,稲葉家老の生母と倅,持参したのは屋敷に掛けられていた「天に星 地に花 人に慈愛」の掛け軸だった。宝暦二年,藩主は江戸出府後に,8才以上の男女に銀札6匁を人別銭として納めろと布告した。凌水は領内で最後に納めることを決めるが,百姓達は黙っていない。大庄屋を継いだ兄は,公儀のやることに逆らわず,荒仕子達にも自分で納めさせる肚だ。新銀札のからくりに気づいた百姓は,怒りの矛先を,庄屋・大庄屋・大店に向け,城下に入る前に,打ち壊しの暴挙に出る。打ち壊しを展開しつつ城下に迫る百姓に人別銀撤回が告げられるが,庄屋も大庄屋も蟄居させられ,大庄屋5人に死罪が言い渡されるが,実際にはくじ引きで一人だけ打ち首となる。千代の夫は逃亡を決意し,庄十郎も兄に逃亡を勧めるが,兄は出頭し,くじ引きの結果で首を刎ねられ,見苦しいと晒し首にもなった。兄から手紙が届き,千代を引き取ってその息子が凌水の跡を取る〜
 「はははぎ」というのは読めないだろうなぁ。改名は考えていないのだろうか? 1947年生まれで東大仏文を卒業後,九大で医学を学んで,精神科医になった。大学を一度卒業して医学部に入り直すというのは結構ありそう。学費が大変だろうに。ま,親のすねを囓ったのか,奨学金で何とかしたのか。医学部に入れる人には貸してくれるし,その気で働けば返すのも大変ではないだろうが,医者の仕事って大変そうだなぁ。あ,そうそう,良い物語でしたよ。確かに医者という仕事は負け戦が続いても偶の勝ち戦でやりがいが出てくるのでしょう

11月の記録にジャンプ

読書記録の目次に戻る

最終更新日 : 2014.11.07

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送