2013/12/03
フランス革命より良いかも〜

「かの名はポンパドール」
〜佐藤賢一〜

『かの名はポンパドール』:佐藤賢一(さとう けんいち):2013年9月25日:\2000:世界文化社:茂原市立図書館
 フランス革命よりも,良い出来
〜ジャンヌ・アントワネットは占い師からフランスの王妃になると予言されたが,弟共々母ルイーズ・マドレーヌは愛人であるトゥールネムという実業家の世話になっていて,病弱で家庭教師の世話までしてくれる。父はフランソワ・ポアソンだが,横領の罪でドイツに逃れているが,本当の父親は誰かと噂にのぼる。社交界にもデビュし,エティオール氏と結婚して,アレクサンドリーヌという娘まで設けたが,セナール森で桃色の馬車を狩りを行うルイ15世の目の前に進めたのは彼女自身だった。王からは鹿肉が届けられるご近所の関係になったが,寵姫が亡くなった後の仮面パーティに潜り込んだジャンヌ・アントワネットは,イチイの樹に扮装した王に誘われて肉体関係を結ぶ。出張から帰った夫は,妻と間男を殺すという手紙の最後の4行で,引き下がる運命を受け入れていた。ヴェルサイユで暮らすための知恵はゴントー侯爵とベルニス師が,オーストリア継承戦争に王が出征中に整えられ,帰国した時にはポンパドール侯爵夫人という名も与えてくれた。平民出身の寵姫に妬み嫉みが付き纏うが,ヴェルサイユの重い空気は次第にアラ・ポンパドールという軽い物に入れ換えられていった。王太子ルイとは馬が合わず,イエズス会からも目の敵にされるが,宮殿に演劇を持ち込み,料理も,衣装も一新した所で,リシュリュー公が対決姿勢を露わにし,アーヘン和議を批判する公は王によって罷免される。弟のアベルを宮殿に入れようとするが,建築を学ぶとイタリアに留学してしまった。ポンパドール夫人を揶揄する歌の黒幕を辿るとモールパ伯が浮かび上がり,不能で女嫌いな事を隠さず,寵姫など入れ替えればよいので,ジャンヌがヴェルサイユ入りしたのも自分の手引きであったと明かす。降伏か抗戦か迷った末の結論は,持病のフリュウーブル・ブランジュを揶揄した伯の手書きの詩を王に見せることだった。権勢の絶頂期にベル・ヴュー城を作ったものの,寵姫の贅沢に腹を立てたパリの群衆が押しかけ,嵐になって披露は散々な目に遭い,その夜,王に不感症を告白して,宮殿を去る用意もしたものの,宮殿に留まるように哀願され,友情で王に仕えることを決意した。百科全書の発禁の処分撤回も巧みに誘導して成功した。マイセンに劣らない窯を作ってセーヴルに工房を作らせたが,新しい寵姫にポープレ夫人を迎えさせるというヴェルサイユを追われたモールパ伯爵の計算は,侯爵夫人をヴェルサイユから追放するつもりだという王の手紙を手渡した時に終わっていた。鹿の苑,パルク・オ・セールは王と側近たちが作ったいわばハーレムだが,早々に監視を続けていたジャンヌはオ・モルフィという一人の女性のために作られたものだとは想像もしなかった。その黒幕はリシュリュー公。十歳の娘が死に,父が死んで,悲しみに暮れる夫人を慰める事でうやむやになったが,オ・モルフィーが出産を迎える時には家と仮親を立てることで王に協力した。プロイセンのために働いたと批判の多いオーストリア継承戦争であったが,信太陸におけるイギリスの攻勢で戦争の機運が高まる中,オーストリア女帝から同盟の打診が寄せられたのは,ポンパドール夫人の許であった。秘密裏に計画は詰められ外交革命はなったが,戦況は一進一退,全ての情報が夫人の居室に集められる中,ダミアンという青年による国王暗殺未遂事件が発生し,王太子は病室に入れるのを本当の家族だけとして彼女を斥けたが,恢復した王は,反ポンパドール派を宮殿から追放した。事実上の宰相になった彼女に国王は全幅の信頼を寄せていたのだった〜
 小説フランス革命が12巻で終わって,次は何を書くのだろうと考えていたら,世界文化社から女性を主人公にした小説が出た。家庭画報にも連載されていたというのは納得。ルイ15世の寵姫だが,外国革命の立役者でもあるという女性。結婚しなければ一人前の人間とは見なされなかった18世紀の女性だ。重農主義のケネーはルイ15世の筆頭侍医だった。デュドロの百科全書も彼女の援助で発禁の処分を撤回して貰った。マリーアントワネットの輿入れや,フランス革命の種も彼女が蒔いたのかも知れないと佐藤さんは語っている。ロココ時代,セーヴル陶磁器もエリゼ宮もエッフェル塔下の緑の芝生もシャン・ドゥ・マルスを彼女の肝煎りで作られたってのは凄い女性だねぇ

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最終更新日 : 2013.12.03

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