2013/01/17
9/12〜

「ジャコバン派の独裁」
〜佐藤賢一〜

『ジャコバン派の独裁』:佐藤賢一(さという けんいち):2012年12月20日:\1600:集英社:茂原市立図書館
 9/12が終了
〜エベールは根っからのサン・キュロットで劇場のモギリから革命に投じ,パリ市の第二助役にもなった。かつてのダントンと同じ立場だが,デュシェーヌ親爺という下世話な新聞が請けている。1793年2月25日,食糧暴動が起こり,様子を見に来た激昂派に荷担するのでもなく,国民衛兵隊を使って排除するのでもない。ロランは内務相を辞任したが,夫人は国民公会をブリュージュあたりに移転すればパリ市民からの圧力を受けなくて済むと考えている。ベルギーを落としたデュムーリエ将軍はオランダに侵攻しようとして目的を果たせず,反革命の分子として浮上し,訴追しようという機運が高まるが,ベルギーに出張していたダントンにも嫌疑が懸けられてきた。反論を自重していたダントンが自ら弁明に立つとジロンド派も沈黙せざるを得ない状況だ。公安委員会と革命裁判所が設立され,大物として告発されたのはジャコバン派の代表・マラであった。人民の友は,多くのパリ市民に見守れながら,無罪を勝ち取ったが,今度は激昂派と共に逮捕されたのはエベールであった。ジロンド派は戦費調達と30万の徴兵のためフランス各地に出張しているジャコバン派が不在の時に12人委員会を立ち上げ,サンキュロットの気勢を削ぐ積もりだったが,はっきりとパリ自治委員会を敵と見なしてきた。釈放された激昂派とエベールは時が来たら暴動を起こすことを約束した。国民公会ではロベスピエールがジロンド派追放を画策し,5月31日に赤い帽子を被ったパリ市民が請願の名を借りて押しかけ,ジロンド派が席を立つ一幕を作ったが,数では勝てない。ダントンはジャコバン派であっても独裁は許されないとロベスピエールを説得する〜
 今回は新聞発行人・エベールの口を借りて語る。次回は粛正の嵐

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最終更新日 : 2013.01.17

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