2012/10/20
お上手〜

「光圀伝」
〜冲方丁〜

『光圀伝』:冲方丁(うぶかた とう):2012年8月31日:\1800:角川書店:県立M高校図書館
 あの・天地明察の冲方さん
〜父・頼房は字・子龍の7歳の我に小石川邸の馬場に転がる生首を持ってくるように命じた。人は長と呼び,千代松が幼名だが実際には3男,同腹で6歳年長の兄・竹丸が病弱であり,次兄の亀丸が病没したため,世子となったが,父から脇差しを与えられたものの,肝試しをされているのだ。9歳で将軍家光に拝謁を許されて光國の名を貰い,12歳の正月に疱瘡に罹って死線を彷徨い,優しい言葉を掛けられて兄がいるのに何故世子なのか悩むようになった。寛永の大飢饉で死体が浮かぶ浅草川を泳いで渡らされ,死にたくない一念で成し遂げたが,父も泳いでおり,世子としての試しだとは思う。刀を貰い,鉄砲も与えられたが,兄は下館7万石の大名に取り立てられたものの,自分が追い出したような気がしてならない。14歳からは父と三人の傅役の許しを得て僅かな供だけで外出が可能となり,ありとあらゆる手段を用いて護衛を振り切ることに傾注し,芝居小屋や飲み屋や遊女屋へ出入りするようになり,17歳で仲間となった傾奇者の間では谷左馬之助と名乗って喧嘩もする。水戸関わりの者だと知っているようで,武士なら人を斬ることを恐れないはずと嗾けられ,浅草の荒れたお堂の下に住み着いた無宿者を斬り殺すことになってしまったが,必死の相手を一刀で倒すこともできず,通りかかった蓬髪の老武士が缺盆に脇差しを突き立ててとどめを刺す姿に圧倒される。逃げ出したものの,遺体が消えた不思議に老武士の正体を見分けようと出掛けた品川・東海寺にいることを突きとめて,出掛けていくと,住寺は沢庵・会津浪人の山鹿素行が居て,供養のために寺の雑事を命じられる。彼らは拾った帳面から水戸の御曹司と知って命じている。光國は詩で天下を取ろうと詩作に懸命なのだった。戦国時代を知りたければ瓶にネズミを数番いいれておけば解ると言う。讃岐高松十二万石に移封された兄と瓶の中を覗くとまさに地獄絵図がそこにあり,明を救うための援兵に賛同するのは如何なものかと考え直させられる。町奴と連むのは止めたが,千住で破戒坊主相手に学論をふっかけて撃退することに喜びを見いだしていた。しかし,倒すべき僧侶達を追い払って泥酔状態で光國を倒したのは隻眼の林家の次男・読耕斎で論に破れた挙げ句に反吐まで浴びせられた。詩を論ずるには史書に通じてなくてはならず,猛烈に学んだ挙げ句に読耕斎に再会したのは,尾張の伯父・義直に林家の講義を受けにいった折りだった。読耕斎は水戸家の所蔵する書に惹かれて小石川邸にも出入りし,光國に対しても恐れることなく,たかが世子と放言し,僧の姿を捨て採蕨の故事のごとく西山で隠棲したいのだと希望を述べる。義のない世にほとほと嫌気がさして居るからだが,光國の自分が水戸家を継ぐのは不義かと尋ねると不義だと断言される。兄を水戸家当主に据えるために何ができるかではなく,自分の血統に水戸家を継がせない方策を練る。紀伊の竹橋邸に招かれ従妹のおよつ姫に迫られるが何とかこれをかわし,朝食時に尾張の伯父の家に行き,史書編纂に取りかかっていることを知る。読耕斎の紹介で細野為景と書を交わすようになり,文武の者と褒められ得意となるが,冷泉家を継ぎ勅使として水戸家を訪ねて来た為景と面会し,意気投合して一回りも歳が離れている友を得られたことに狂喜する思いを抱く。伯父・義直が死んで史書の必要を説かれるが,興味のない光貞に代わり目録作りは光國がやらざるをえなくなった。父の奔走で近衛家との縁談が進む中,奧女中・弥智との間に子ができるが,伊藤玄蕃に水に流すことを相談するが,伊藤は子を産ませ,兄に預けると言う。輿入れしてきた近衛家の泰姫に義を貫くため,自分は子を作らず兄の子を養子と迎える積もりだと告白すると,聡明で闊達でもある新妻は子を交換すれば良いと新たな提案を行い,光國は我が意を得た思いだった。後の世に明暦の大火と呼ばれる大火事では家の者を統率し小石川から駒込へ誰も欠けることなく避難させ,駒込に史書編纂の場を設けることを父に許される。光國は赤痢に罹っても一命を取り留めたが,泰姫は二度罹患して命を落とした。旗本の子から抜擢した藤井紋太夫は13歳ながら明人を師として招くべきだと提言し,光國をうならせる。母は家光の子を産む者として懐刀である父・頼房に預けられたが,輿入れなく,兄と自分とを産み,父はこの不義を理由に生涯正妻を持たなかったのだと知る。冷泉為景が,読耕斎が若くして死に,父が59歳で他界し,追い腹を禁じ,儒式での葬礼を強行し,弟妹の前で兄・頼重の子を養子と迎え入れたいと宣告する。一人でなく二人。兄は渋々これに応じ,高松藩の世子に光國の子・鶴松を据えると言う。水戸藩主となった光國は弟達に領地を割譲し,母を見送り,将軍から認められた世子は水戸が綱方,高松が頼常と決まった。念願の水戸入りを許された光國は,水道事業が遅々と進まず,貧しさ故に悪党が蔓延る様を見て,博徒の大物と元忍の元締めを手下に加え,悪道の師とすることに成功する。江戸に戻って,学問の師を朱舜水を迎え,殖産実学を実践する。舜水は治道の四箇条を『政教分離』『税の公平』『大学制度』『海』であったが,淫祠破脚で政教分離はできたものの,税の公平までは至りそうにない。流感で世子・綱方が死に,采女が世子綱條となり,次代の水戸を支える者としては紋太夫が一番であった。紀伊の伯父・頼宣が死に,本紀二十六冊が完成した。火事小屋を小石川に移し,彰考館と変えた。早々に隠居した兄は子らの縁談を調えるよう要請される。別春会で仕入れた噂で僧を捨てた佐々宗淳・介三郎を得,全国で史書を集めるよう指示し,安積覚兵衛を紋太夫に代えて史館の要とすると,藤井紋太夫は不満らしい。詩作では言葉の神・後水尾上皇から依頼され,激賞される。保科正之が死に,改暦に失敗した安井三哲の後援も務め,儒者の蓄髪を強行する。大老の酒井家から松を頼常の妻と迎え,自家の嫁としては公家・今出川家の季姫が決まった。世間知らずの姫君を教育するため,小石川屋敷内に泥田を造り,実がならなかった悲しみを覚えさせた。隠居を考え始め,読耕斎の棲もうとした西山が思い出され,則天文字の圀の字が浮かびあがってきた。家綱が亡くなり,堀田正俊が綱吉擁立に奔走し始めると,舜水は日本の王となれと勧め,紋太夫も熱望しているが天災・火災に苦しむ貧民救済に奔走し,綱吉の治世に納得はできないが徳川の安寧の世を戦乱に陥れることに義は考えられない。後水尾上皇の硯に銘を入れ,朝廷から備武兼文・絶大名士と賞賛されても天下をとった気にはなれない。師の舜水が死んだ。朝廷から天皇直筆の手紙を受け取り,世情は光圀を天下一の善人と認めているが,それは綱吉にとって不快極まるもので,水戸家への嫌がらせは続く。生類憐憫令など笑止千万で相手にする気も起きない。水戸へ就藩すると一揆を煽動する間者が出没する。後ろで手を引いているのは将軍自らで,その稚拙な手口に呆れるばかりだ。大老・堀田が殿中で若年寄に殺害され,稲葉もその場で滅多刺しにされた。次には隠居を求めてくるだろう事を察した光圀は隠退の噂を流すように知己の大名に依頼すると,願いも出さないのに許しを与えようとする将軍に一矢を報いようと,一人の老中だけに大納言の官位を要求し,渋々受けて後,黄門と呼ばれることになる。水戸に隠居すると,またぞろ一揆煽動の間者が入り込むが前よりも巧みだ。さらに他国に一揆を起こそうとする水戸の密偵が逃げ帰ってきた。史書の断片を集めた覚え書きは秘されたが,何者かがこれを盗み見ているらしい。自由に出入りできるのは水戸大老のみ。親戚・知人を集めて催した能の会で,藤井紋太夫を楽屋に呼び出し詰問すると,水戸が将軍となった後,大政を朝廷に奉還するのが自分の義だと述べた紋太夫を宮本武蔵から習った缺盆を突いて命を絶った〜
 天地明察の渋川春海の話は欠かせない。犬の毛皮で造った衣服20着は嘘。若い頃の放蕩生活や隠居した後の百姓屋巡りが膨らんで,水戸黄門になったのね,勉強になったわ。この本は「明総浄机」が織り込まれているのだが,だれを殺したかが最後まで解らない仕組み。なるほど,よく練られているし,よく調べ尽くしたと感心。言葉巧みで,まだ30代とは思えない。邸の根太を踏み抜いたり,茶碗を握りつぶしたり,表紙の絵の虎がこれをよく表している。穏やかな黄門像を打ち破る作りで,そりゃ元から黄門様も爺じゃなかった筈だよ。義に生きようとする猛虎が光圀の姿で,それよりも大きな義に出会って苦悶する最高の文人も,義を貫いた水戸家後々の当主によって成就する歴史の不思議を予見できなかったのだろう。それにしても,泰を失った後の女出入りが描かれていないのが不自然であるのだが,侍女の左近だけを書いて,後は察しをつけろというのか,意地が悪いなあ

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最終更新日 : 2012.10.21

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