2017/05/30
仕掛けが大人しすぎる〜

「最悪の将軍」
〜朝井まかて〜

『最悪の将軍』:朝井まかて(あさい):集英社:2016年9月30日:\1600:千葉市若葉図書館泉分館
 と言われれば,そりゃ犬公方・綱吉だろう・って答えが返ってくるってもんさ!
〜長兄・家綱が不例となって呼び出されたが,酒井大老が言う宮家から将軍を招くのでなく,綱吉が考えるまでもなく兄・・松平綱重の子甲府宰相・松平綱豊が候補だ。新参の老中・堀田正俊は上意を示した。堀田には民と財を分掌させ,酒井を引退させ,堀田を大老に任じた。馬老や側用人の柳沢も引き上げ,文治を協調して武を斥け,母の桂昌院も従一位の官位を貰った。就任から命を助ける志は家綱公時代から始まり,綱吉は御救いの政と呼ばれているが,巷では男児・徳松を失ってから犬公方とも呼ばれている。穢れを嫌う綱吉は還暦間近,殿中刃傷事件が起こり浅野に切腹を命じ,打ち首にすべき赤穂浪人達には切腹の沙汰を下し,上杉家との縁を消すため吉良家も改易とした。火事・地震・浅間の噴火,長雨の後の洪水と天災に見舞われ,紀伊家に嫁いでいる鶴姫も死去し,後嗣は綱豊しかおらず家宣と改名させて西之丸に入れた。家宣に世子が生まれて喜んだのも束の間,富士が噴火し京の大火事・赤痢と麻疹がはやった。御台所・信子に綱吉は不徳の君主を天はお責めになっているのかと嘆くが,断じて最悪の将軍ではないと信子は思うのだった。麻疹後,朝餉の粥を吐いて喉に詰まらせあっけなく身罷った。死後十日,家宣の将軍職宣下前で生類にかかわる数多の令は撤回・停止された。「我に,邪無し」〜
 …それほど酷い将軍でもなかったのにねがオチだ…ね

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最終更新日 : 2017.05.30

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