2016/11/12
大坂出の咄家の一生〜

「天下一の軽口男」
〜木下昌輝〜

『天下一の軽口男』:木下昌輝(きのした まさてる):2016年4月5日:\1700:幻冬舎:県立M高校図書館
 表紙の絵は客の足を停めさせるための俄(物真似)で大名の振り
〜太閤さんにも喜ばれたお伽衆の初代・安楽庵策伝は金山のある飛騨高山藩の藩主の弟であったが,誰に呼ばれても,そのお伽衆と成らず,醒睡笑を著したが,同じ藩から出てきた二代目は腕も立ち物覚えも抜群であるが,咄は巧くない。金山を巡る争いで幕府の介入を防いでいたが,幼い藩主が幕府に丸め込まれそうで,出奔し,大坂の辻に立つ。それを見ていたのが米沢屋という漬物屋の次男である彦八だった。幼馴染みの里乃と子供たちを集めて小屋遊びをし,小石や貝殻を銭に見立てていたが,里乃の家業の米問屋が傾いて,夜逃げした。彦八がいずれは天下一のお伽衆になって里乃を笑わせると誓うと,その時は『真筆・醒睡笑』を呉れてやると,二代目は言い残して,騒動が持ち上がっている飛騨高山に帰っていった。彦八は,難波村の塗り師の跡取りが家出をして江戸で辻咄を生業としていると聞いて,猫の蚤取りの為の狼の毛皮を持って,江戸に下る。江戸では,上手な辻咄は,大名のお伽衆に抱えられるより,大商人の座敷に呼んで貰うことを望んで,辻から消えていく。塗り師・志賀屋の左衛門の咄は巧みなのに売れない。梅若という子を残して女房は同業の伽羅小左衛門の許に行ってしまった。もともと役者を目指していたが,馬の足役をからかわれて逃げ出したが,浮世絵師の石川流宣が,鹿野武左衛門として売り出しに必死だ。弟子になりたい彦八は,絵のモデルとしてポーズをとる姿に目をつけ,咄に身振り手振りを付けることを提案する。見事に受けて咄家としては西の大関に輝き,彦八も弟子として認められ,辻に立つようになるが,彦八の才能を見た石川は伽羅一家の若手に,彦八の作った咄を漏らし,聴衆には彦八が人の咄を盗んだと思わせて,大坂に追っ払われた。家に帰ったものの漬物屋の仕事も満足にこなせず,兄の供として出掛けた京の料理屋で,評判の露の五郎兵衛の咄を聞いて,やる気を奮い立たせた。生國魂神社で様々な小屋を掛けている元締めの竜兵衛に誘われて舞台に立つが,足を停めてくれる客はまばらだ。彦八のじっくり聞かせる咄の好敵手は,次々に笑いを振りまいている。客の足を停めるための作戦として思いついたのが,遊女屋で見た大名の物真似だった。大名俄は評判となり,咄の面白さにも客は気が付いたが,真似される大名の方は,屈強な武士を差し向けて已めさせようとする。彦八が切り捨てられる寸前を救ったのは,二代目の安楽庵策伝であり,贅を尽くした屋敷に住む,その主である藩主の叔父が砂金の山を築いて喋らせようとする,彦八は天下一の軽口男になると言って,取り合わない。実は何も書かれていない『真筆・醒睡笑』を渡す必要もなかった。鹿野武左衛門が書いた本のせいで大島流しにあったのを聞いて,気が気でない彦八は弟子を採るどころの騒ぎでないが,京から来た露の五郎兵衛は江戸から上ってきた若い男を弟子として押し付けた。炊事も片付けもやってくれるので良いのだが,咄は巧くなく,恩赦で江戸へ戻った鹿野武左衛門の悪口を言った咄家仲間と大喧嘩をして,武左衛門の息子の梅若であると気が付いた。謹慎中の塗り師の仕事が見事だったので,その道に進ませるため,武左衛門を江戸から呼んで引導を渡させた。弟子がいなくなって不便を感じた彦八の許に,豆腐屋をしくじった男が付いてから,一門が隆盛を極めた。一番弟子に名を譲って引退することを決意した彦八の許に現れたのは,名古屋の米問屋の嫁となり孫にも恵まれた里乃だった。その夫は,名古屋に常設の小屋を建てるので,そのこけら落としに名古屋に来いと誘うが,彦八の名が必要だと言う。悩んだ末に,弟子に名を譲るのを急遽取り消した彦八は単独で名古屋を目指すが,途中で病に倒れ,舞台に上がることはできなかったが,里乃の孫娘を笑わせることはできた〜
 木下さんは1974年大阪生まれで,直木賞候補作家。近大建築卒でハウスメーカーに勤めた。江戸と東京の違い。彼の発想は面白いのだが,その面白さが褪めてしまうような下手の表現が時々出てくるのが残念。そして,そのどちらでもない話芸のあり方を名古屋に求めた。座敷芸か,辻芸か,小屋芸か?

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最終更新日 : 2016.11.13

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