2016/10/0
〜新作だった

「暗幕のゲルニカ」
〜原田マハ〜

『暗幕のゲルニカ』:原田マハ(はらだ):2016年3月25日:\1600:新潮社:県立M高校図書館
 GUERNICA UNDERCOVER
〜1937年パリ万博でスペイン館を飾る大きな絵を依頼されたプブロ・ピカソの許に秘書のハイメ・サバルテスはゲルニカがナチスドイツの空爆を受けた記事を載せた新聞を持ち込んだが、二度までの破り捨て蹴散らし、モデルでゲルニカ制作の記録を撮る写真家でアーチストでモデルで愛人でもあるドラ・マールは三度目で漸く内容を知ることが出来た。アトリエに籠もるピカソは、カメラを持って来るようにドラに命じ、縦350cm横780センチの真っ白なキャンパスに掛けられていた暗幕を取ると、下絵が現れた。死んだ子どもを抱いて泣き叫ぶ女、人間の男の顔を持った牡牛、折れた剣を握りしめて横たわる瓶子、息も絶え絶えにもがき苦しむ馬、逃げ惑う女、助けを求めるように二階の窓から腕を突き出してランプの灯火を翳す人。その家からは火の手が上がる。中央には虚空に向かって高々と突き出された拳がある。ゲルニカだとドラは察知した。色はモノクロに違いない。飛行機も戦車も爆弾もないが、否応なく戦争に巻き込まれた人々を描き、ファシストへの戦いを挑むピカソの芸術だ。迷っているピカソを置いてフィルムを取りに帰り、ドゥ・マゴに立ち寄って見つけた若い男は公爵家の跡取りであるパルド・イグナシオだった。ピカソに引き合わせ、完成に立ち合わせ、最後に牡牛の目から流れる赤い涙を剥ぎ取って渡されたパルドはピカソの理解者、スポンサーとなった。賛否両論渦巻く中、ゲルニカは北欧を旅し、イギリスに渡り、スペイン共和国崩壊のニュースを聞いて、アメリカに渡った後、パルドの伝手で,出来たばかりのMoMAに預けられた。フランスがドイツに降伏して、逃亡先のロワイヤンからパリに戻ったピカソは、ナチスに捕まることもなく、連合国の侵攻でナチスによるパリの破壊を恐れることもなく、パリに留まったが、パリ解放後は娘のいる愛人の許へ行き、ドラは妊娠を知りながら別れを切り出した。生まれる子はスペインに連れて行き、ピカソから渡された鳩の絵を渡して欲しいとパルドに願うのだった。八神瑤子はMoMAのキュレーターだ。夫のイーサとNYで暮らす。寝室にはエンゲージの為にイーサから送られた鳩の絵。8歳でゲルニカに出会い、あまりの衝撃にコロンビア大学在学中も避けていたが、ピカソ研究でスペインに留学し、プラド美術館でインターンを務め、レイナ・ソフィア芸術センター開設準備室・サンフランシスコ近代美術館で勤めた後、35歳でMoMAに転職した。2001年9月11日、朝食にトルティージャを買ってきてWTCのオフィスに出掛けていったイーサとはそれきりになった。瑤子自体は五番街53丁目ホームから出て目撃する。アメリカがイラク攻撃を国連に認めさせた国連本部での国務長官の記者会見では、あるはずのゲルニカのタペストリーに暗幕が掛けられていた。ホワイトハウスの差し金に違いないが、注目はMoMAのキュレーターと理事長であるルース・ロックフェラーに揺さぶりを掛けてはぐらかしている。MoMAQNSで計画しているピカソの戦争展に是非ともゲルニカを借りたいのだが、恩師であるアダ・コメリャスも、美の巨人パルド・イグナシオも完璧なノーを突きつける。記者会見で借り出しは不可能と伝えざるを得なくなった矢先、ルースから伝言が届き、プライベートジェットに乗って、マドリードに飛び、完全極秘でゲルニカを輸送する作戦が始まった。準備が完了してホテルに戻るが、通関に手間取っているというスタッフのSOSで車に乗ると、目が覚めたのはバスク独立を目指すテロリストのアジトで、ゲルニカを奪って始末するというのだ。何とかゲルニカを守らねばならない。首謀者の妻であるマイテは空へ飛び立つ鳩の絵の写真を見せて本物かと問う。ウルに翻意を迫る中、銃声が響き、マイテによって外に連れ出された瑤子は救出されるが、マイテは銃撃の的になる。記者会見で瑤子は暗幕を取り去る指示を出す…〜
 MoMAで行われた展覧会には貸し出されなかったというのが史実だ。原田さんは1962年生まれで早稲田二文美術史の卒、馬里邑美術館・伊藤忠・森ビル美術館・MoMAにも派遣された。21世紀編で出てくる人物のモデルはない!と宣言! 私だ僕だ!という人も出てくるかもね。20世紀編ではルースとパルドが架空の人物と断っている

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最終更新日 : 2016.10.05

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