2016/06/15
〜さすが佐藤賢一だが・読者に余力がなくて〜

「ハンニバル戦争」
〜佐藤賢一〜

『ハンニバル戦争』:佐藤賢一(さとう けんいち):2016年4月15日:\1850:中央公論新社:県立M高校図書館
 久し振りの佐藤賢一だが,ハンニバルの話でなくてスキピオ
〜貴族の奥方との逢瀬を執政官である父親に抑えられた17才のプブリウス・スキピオは父と一緒に出征することになったが,行き先はガリアでカルタゴの騎兵と遭遇戦になったが,恐れるべきものはない。ハンニバルはアルプスを目指し,ローマ軍は本国に引き揚げ,ティキヌス河で冷たい河を渡ってカルタゴ軍を追うが,ヌミディア騎兵に後から追われ,父親の危機を自らの危険を顧みずに救った。カルタゴ軍はローマ軍の3倍いたから勝てなかったのだ。トレビア河ではカルタゴ軍の挑発に,朝食も摂らずに出撃し,歩兵は渡河の寒さに気絶しても立ち上がり,カルタゴ軍が横一列で待っているだけでなく,伏兵が河から現れて,挟み撃ちに遭い,辛くも中央突破が叶った。ローマに戻ったスキピオは,ルキウス・アエミリウス・パウルスを父から紹介され,その15才の娘パウラと婚約し,義父と共にハンニバルに立ち向かう。ローマに迫るトラスメヌズ湖では2万5千の兵団の内,死者が1万5千と捕虜が1万,ハンニバルは強いと認めざるを得ない。独裁官のファビウスは不戦作戦だが,百人隊長として臨んだカリクラ峠の封鎖線では二千頭の牛の角に松明を付けて驚かされ,逃亡を許してしまった。カンナエでは負けるはずのない会戦でカルタゴ軍を歩兵が押しに押して後退させたが,ヌミディア騎兵に後に付かれローマ軍は殲滅され,這い回って戦場を逃げ出し,妻と男児が二人待つローマに帰還した。5年後,コリナ門で初めてハンニバルの顔を見て,槍を投げつけられたスキピオは必死でハンニバルの戦い方を研究した。やがて,イベリアから父と伯父の戦死が伝えられ,なり手のないイベリア方面司令官に前例がないまま30才を前に立候補し,到着すると通常20日の行程を7日で強行し,カルタゴノウァに辿り着き,風と潮汐を利用して,干潟を渡抄し手薄な西側城壁をよじ登って陥落させた。バエグラではハンニバルの弟・ハスドバル・バルカを小高い丘に追い詰め,殲滅しようとしたが,騎兵の質の差は否めず逃がしてしまったが,ヌミディアの王子マシニッサの甥を捕らえ,無償で解放して恩を売ったが,ハスバドルはハンニバルと合流するため,アルプスを越えていった。イリパでも殲滅戦は成立せず,ハスドバル・ギスコに逃げられた。ヌミディア騎兵を手に入れなければならないスキピオは,西ヌミディアの王と盟約を結ぼうと出向いて思いがけずギスコと食卓を共にする。ローマに帰還したスキピオは,30才を前にして執政官に立候補し当選を果たすが,専制を嫌うファビウスとの妥協でシキリア方面に派遣された。数年を掛けてアフリカに陣地を構え,小競り合いを演じてカルタゴ本国にハンニバルを呼び戻させ,象も研究し,ヌミディア騎兵を手に入れてザマで決戦に挑む〜
 ハンニバルがアルプスを越えてイタリアに侵入した理由は,第一次戦役でシキリアは仕方ないが,サルディーニャとコルシカを掠め取られたのが悔しいからだと!!

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最終更新日 : 2016.06.15

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