2016/02/09
〜流石に塩野さん

「ギリシア人の物語T 民主政のはじまり」
〜塩野七生〜

『ギリシア人の物語T 民主政のはじまり』:塩野七生(しおの ななみ):2015年12月20日:\2800:新潮社:県立M高校図書館
 ローマ人の物語T270ページの内52ページしか取り扱わなかったのを3巻に!
〜オリンピアで競技会が始まったのはBC776。参加資格はギリシア語を話しギリシアの神々を信仰すること。AD393にテオドシウスが異教に捧げられた祭りを禁止するまで続けられた。アルカイックなギリシアは恵まれておらず戦いに敗れた者は他地域に移住。エーゲ海から,更に南イタリアとシチリアは特に繁栄した。クラシカルなギリシアはスパルタのリクルゴスから始まる。スパルタの固有の社会階層に手をつけず固定化した。王二人は軍勢の中心に居る存在で,年に一度市民集会で選ばれるエフェロスが実権を持つが,いわば小人だ。リクルゴスは自分が帰るまで決まりを変えるなと宣言して旅に出て戻らなかったため,宗教になった。一方のアテネはその1世紀後,父親が財産を失ったのをビジネスで成功し帰国したソロンは,借金の返済が出来なかった者は自らの肉体で返済するという従来の法を撤廃する提案を行い,市民を4階級に分け軍務を課す。18まではホメロスなどから学び2年間の訓練後,20歳で現役となり50歳まで続く。ソロンの母方の親族ペイシトラトスはサラミス獲得の鬨の声を揚げ人気を得たが,トラキア地方の鉱山経営で成功し,マラトンに上陸したが,対抗する平野党も沿岸党も領袖は逃亡していた。50歳になっていたペイシトラトスは地主不在の土地を貧しい人びとに分け与え,直接税を課し,銀貨を鋳造。作るそばから売れる壺を一大産業に育てる。沿岸党の名門アルクメオニデス一門のメガクレスの子クレイステネスは19歳から19年間亡命生活を送り,ペイシストラトスの死後ヒッピアスの代まで専横は続く。テーベがプラタイアを侵略したことからアテネも出兵せざるを得ず,破れたテーベは反対派のアルクメオニデス一門にボイオティア南部地方を贈与した。弟のヒッパルコスが暗殺されたのを好機とみたクレイステネスは,アポロン神殿を補修し,巫女を通して参詣に来たスパルタ人にアテネ市民をペイシストラトスの鎖から解放せよと言わせた。スパルタによってヒッピアスが追放されスパルタの傀儡イサゴラスも追い払われた後のアテネに入ったクレイステネスは,僭主政復活を阻止するため都市部・沿岸部・内陸部を1〜10の区に分け3区を合併し10のトリブスに再構成する。行政区としてこれを3個のトリッティウムにし,なおも5個のデモスに分けた。150(後に170)のデモスのどこかにアテネ市民は戸籍を持った。トリブスの1つずつに3千人の兵役を担当させ,10人のストラテゴスによる内閣を構成させ,最高機関は20歳以上の成年男子全員が投票権を持つ市民集会とし,陶片追放の制度を設けた。6千人以上の参加で成立し過半数の賛成で10年間の国外追放となる。ペルシアのダリウス治下のペルシアは目を西方に向け事前通告として土地と水を差し出せと通告する。イオニア地方・レスボス・キオス・サモスと攻略し,ミレトスを陥落させるが,20隻を派遣したアテネに兵を向ける。ナクソスからエレトリアを落として冬越えした期間に兵を鍛え,トラキアから帰国したミリティアデスに指揮を委ねた。BC490念春ペルシア軍1万5千に対しアテネ9千とプラタイア千がマラトンで数日睨み合い,2m対4mの槍の戦い1日でペルシア死者6400アテネ192の圧勝だった。スパルタは1日遅れ。英雄となったミリティアデスはパロス攻略に失敗し,アテネ市民を裏切った罪で50ターラントの罰金刑に処せられ失意の内に死亡した。@アルクメオニデス派はアリステイダス・メガクレス・クサンティッポスAペイシストラトス派のヒッパルコスB貴族派のミリティアデスC民衆派のテミストクレスでBは早々に脱落,ラディカル(急進派)のテミストクレスは,200隻の軍船建設を掲げ,ヒッパルコス・メガクレスを追放,クサンティッポス・アリステイダスを追放し,ストラテゴスを新設。貴公子クセルクセスは180万の兵・500万の非戦闘員を引き連れてギリシアに侵攻。フェニキア船300ギリシア船300エジプト船200を引き連れた。イスニアではテルモピュレー・アルテミシオンラインで迎え撃つと決まり,陸上はレオニダス王率いる300のスパルタ軍を核とする1万で迎撃するも,間道を使って挟み撃ちになり玉砕。海に展開していたアテネの200隻を核とする324の海上軍は引き上げた。1ヶ月の後,全市民を疎開させ,サラミス湾で待つテミストクレスは母がトラキア出身で第三階級の弁護士だったが,ストラテゴス・アウトクラトルという地位を臨時職として設け,フェニキア海軍大型300隻をアテネ海軍200隻が誘い込んで撃滅,その他のギリシア海軍がペルシア下のギリシア海軍を援軍に向かわせなかった。クセルクセスはこの直後から人格が破綻し,サルディスに帰還し,翌年のプラタイアの戦いの主力はテミストクレスに憧れる若将パウサニアスが負けられず死ねない境地に追い込まれる。主力になる不死身の近衛兵1万と騎兵に対するため,丘陵まで一旦誘い込む作戦にベテランを納得させ,騎兵の馬を長い槍で倒し,防具に優れたギリシア側の有利を活かした。4万はすでに退却しており,8万を葬ったことになる。同じ頃,テミストクレスの発案でミカーレを襲ったギリシア海軍はエーゲ海を自分たちのものに取り戻した。陸軍司令官を解かれたパウサニアスは海軍司令となってキプロスを攻めて無謀を知り,北上してビザンティオンを攻略するが,アジアからヨーロッパへの侵攻を防ぐが,アテネは小人のエフォロスを焚き付けて呼び戻している間に,ミリティアデスの子キモンを派遣して奪う。ペルシアの再攻に備えたデロス同盟は300のポリスが参加し200人で動かす軍船か資金を提供するもので,エーゲ海が一大経済圏に発展し,スパルタをだましだまし建設した外港ピレウスとアテネを繋ぐ道と防壁も完成した。パルサニウスはペルシアと通じている告発され,帰国した上で殺害される。サラミスから9年,アリステイダスの意を汲んだキモンに告発されたテミストクレスはBC471年に陶片追放になり,パルサニウスに通じていたと国際手配されるが,アルゴスからコルフ,エピュロス,マケドニア,エフェソスへと悠然たる逃避行を続け,クセルクセスの次男・アルタ・クセルクセスに面会を申し入れ,懸賞金200タレントを手に入れ,マグネシアの知事に任命される。BC449年,カリアスの講和でアテネとペルシアは相互不可侵条約を結び,ペリクレス時代へ〜
 表紙はテミストクレス!歴史を書いたツキディデスが絶賛した。一方のパウサニアスはプラタイアの戦闘の英雄であったが,ツキディデスの頃にはアテネとスパルタの対立が激化していたためスパルタ人で罪人扱いされて殺されたパウサニアスは裏切り者と烙印が圧されて肖像さえも残っていない。スパルタの通過儀礼の最後は不意を襲ってヘロットの首を持ち帰ること。テミストクレスの肖像の兜がずらした形で描かれるのは,後ろ頭が大きすぎるのを笑われていたから…てのはなし。200隻の軍船にはそれぞれ200名が乗るから全部で4万の戦闘員が必要だって,凄い数。エウボエアを半島と書いたり島と書いたりして揺れているのは,元々地続きだったのが地震で海峡になったからだったのか!テルモピュレーからサラミスまでは直ぐだと思っていたが,1月以上も空いていた。300の王は60を超えていたのだ!相変わらず塩野さんはよく調べていて飽きさせない作家です。喋りは上手じゃないが,文字にするとスルスル

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最終更新日 : 2016.02.09

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